書を捨てよ町へ出よう

寺山修司

【言葉の錬金術師】とも呼ばれるほどマルチな才能を持った寺山修司。詩人であり劇作家として名高いのはもちろんのこと、歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動して、膨大な量の文芸作品を発表しました。また競馬への造詣も深いため、競走馬の馬主になるほどでもありました。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすなどさまざまな活動を行なっていました。

寺山修司その人物

寺山修司に本業を問わと「僕の職業は寺山修司です」と返すのが常でした。それほど、マルチな才能を発揮した寺山修司です。彼の47年間という人生は駆け抜けるような一生だったのではないでしょうか。寺山修司は高尾に眠っています。愛犬の像の横に墓石がありますが、墓石の上には開かれている本があります。本には何も書かれていません。

少年時代

1935年(昭和10年)12月10日に青森県弘前市に、父・八郎、母・ハツの長男として生まれました。父親の八郎は当時弘前警察署勤務です。父親の転勤のため、県内各所を転々とした少年時代を過ごしています。ハツと元妻九條今日子によると、青森県弘前市紺屋町生まれとされています。寺山修司自身が「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など出身地に関して記述していますが、彼のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれています。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっています。これもハツによると、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」といいます。ただ、戸籍の出生が正しいとの説もあります。ちなみに本籍地は青森県上北郡六戸村です。(現三沢市)

1941年(昭和16年)青森県八戸市へ転居しています。 八郎が出征のため、ハツと青森県三沢市へ疎開しています。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預けています。修司は青森市マリア幼稚園入園しました。

1945年(昭和20年)青森大空襲によって、ハツとともに焼け出され家も焼失してしまいました。9月に八郎がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取りました。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現三沢市)の古間木駅前(現三沢駅)に転居しました。そして古間木小学校に転校して、そのまま中学2年までを過ごしています。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働いていました。そして米軍差し押さえの民家に移っています。

1948年(昭和23年)三沢市の古間木中学校入学しました。ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移り転居したこともあって、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られて、転校しています。秋に、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校しました。

1949年(昭和24年)中学2年生で京武久美と友人になっています。京武は句作をしていて、その影響から俳句へのめり込んでいきました。文芸部に入って、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続けていきました。

1950年(昭和25年)青森市営球場で、藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦しています。

1951年(昭和26年)に青森県立青森高等学校進学しました。青森高等学校では文学部に所属しています。「山彦俳句会」を結成して、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催しています。全国学生俳句会議結成しました。俳句改革運動を全国に呼びかけています。京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊して、高校卒業まで編集・発行を続けました。同期生にはピューリッツァー賞を受賞したフォトジャーナリストの沢田教一がいました。

歌人からシナリオ作家へ

1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学しました。「ふぞろいの林檎たち」の脚本家山田太一とは同級です。在学中から早稲田大学短歌会などで歌人として活動していました。

18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞しています。混合性腎臓炎で立川の病院に入院し、1955年(昭和30年)ネフローゼと診断されて入院しました。

1956年(昭和31年)在学して、わずか1年足らずで退学しました。20歳で処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演されて、それを観た谷川俊太郎(詩人・絵本作家)の病院見舞いを受けて交際が始まりました。

21歳で第一作品集『われに五月を』が出版されました。1958年(昭和33年)第一歌集『空には本』が出版されています。その後退院して、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之達と「若い日本の会」を結成して、1960年安保に反対しました。

1960年(昭和35年)2月に、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送されました。長編戯曲『血は立ったまま眠っている』が浅利慶太の「劇団四季」で上演されました。篠田正浩監督作品のシナリオを担当して、大島渚と出会ったのもこの頃です。

25歳で母親のハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居を始めました。27歳で松竹の女優だった九條と結婚して、ハツとの同居先を出ました。

60年代半ば以降からは、学研の「高三コース」で高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりしたりと、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていきました。

「天井桟敷」結成

1967年(昭和42年)1月1日に「天井桟敷」を結成しました。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演を行いその時の演し物は『青森県のせむし男』です。

6月新宿末広亭で第二回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第三回公演『毛皮のマリー』と順調に上演していきます。

3月評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行されました。詩人、歌人、劇作家、演出家として活躍していきます。33歳で妻の九條と別居しました。

1969年(昭和44年)西ドイツフランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれて『毛皮のマリー』、『犬神』を初の海外公演を行いました。

カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がけて、この曲はミリオンセラーのヒットとなりました。

1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務めました。別居中だった九條と34歳で離婚しました。離婚後も九條は晩年の寺山のよき協力者となりました。

1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出しました。そして、サンレモ映画祭でグランプリを獲得しています。そしてフランスのニースで作家ル・クレジオ(2008年ノーベル文学賞受賞者)と2日間語り明かしています。ロッテルダム国際詩人祭に出席して、そこで詩を朗読しています。フランスナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリを受賞しました。

1974年(昭和49年)映画『田園に死す』が公開されて、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞しました。

1975年(昭和50年)杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報によって警察沙汰となりました。

1979年(昭和54年)肝硬変で入院しました。

1980年(昭和55年)渋谷区内で取材中に、アパート敷地に住居侵入したとして逮捕されて、略式起訴されました。

1981年(昭和56年)肝硬変の再発で再び入院しています。

1982年(昭和57年)朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表しました。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行って、『奴婢訓』を上演しました。

1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住していましたが、河北総合病院に肝硬変のため再度入院しています。そのまま腹膜炎を併発して、敗血症で死去しました。47歳でした。戒名は天游光院法帰修映居士です。

没後

1995年(平成7年)十三回忌を記念して、砂子屋書房が寺山修司短歌賞を開始しました。

1997年(平成9年)に出身地の青森県三沢市に寺山修司記念館が建てられました。2008年(平成20年)2月 生前未発表の短歌が田中未知編纂により「月蝕書簡」(岩波書店)として刊行されました。