書を捨てよ町へ出よう

アングラ劇団

アンダーグラウンド劇団は1960年代から1970年代にかけて、市民運動や学生運動の思想とも通じる所があってとても活発でした。そのアングラ劇団を代表するのは、まず紅テントで有名な唐十郎の状況劇場です。唐十郎の息子、大鶴義丹の父親程度しか知らないのですが、間違いなく1960年代~1970年代を代表する劇作家でもあり演出家です。ちなみに芥川賞を「佐川君からの手紙」で1983年に受賞しています。

状況劇場

状況劇場は1963年(昭和38年)に笹原茂峻(笹原茂朱)たちと共に劇団「シチュエーションの会」(翌年「状況劇場」に改名)を旗揚げしました。演劇の新テーゼ「特権的肉体論」を提唱しての旗揚げです。

唐十郎(本名:大靏 義英)は、1940年(昭和15年)2月11日、父親は理研映画で監督・プロデューサーを務めた大鶴日出栄の元に東京都で生まれました。前妻は女優の李麗仙で、息子は俳優の大鶴義丹です。

東邦大学付属東邦高校を経て、明治大学文学部演劇学科卒業しました。1963年に劇団を旗揚げして、旗揚げ公演はサルトル作の『恭しき娼婦』です。翌1964年(昭和39年)の処女戯曲で、初めて唐十郎のペンネームを使いました。『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』(処女戯曲)この時期は、李礼仙(李麗仙の旧芸名)と一緒に「金粉ショー」をしながらキャバレーを巡りをして、芝居の資金や紅テントの購入費用を調達しました。1967年(昭和42年)2月に、新宿ピットインで、ジャズ・ピアニスト山下洋輔とジョイント公演しています。この時の入場待ちの行列を見て、唐十郎は自分のやっていることに自信がでてきたと後に言っています。

1967年8月に、新宿・花園神社境内に紅テントを建てます。そして『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演しています。当初、神社側から「『腰巻』では国体に反する」とのクレームが入ったこともあり、『月笛お仙』と改題して上演していますが、1週間程度で元の『腰巻』に戻しています。この紅テントが話題を呼んで、後の「状況劇場」の方向性を決定づけることになりました。

花園神社の紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行っていましたが、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こります。そしてついに神社総代会より1968年6月(昭和43年)以降の神社境内の使用禁止が通告されることになりました。1968年6月29日に、「さらば花園!」と題するビラをまいて、状況劇場は花園神社を去りました。

1969年(昭和44年)1月3日に、東京都の中止命令を無視して、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建ます。そして、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行しました。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行っています。これが世に知られている「新宿西口公園事件」になっています。上演後に、唐十郎、李麗仙たち3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕されています。この頃から、マスコミに状況劇場がしばしば取り上げられるようになりました。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信と一緒に「アングラ四天王」と呼ばれて、アングラ演劇の旗手とみなされていきました。状況劇場は初期には麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健たちが所属して、後に根津甚八、小林薫、佐野史郎、六平直政、菅田俊、渡辺いっけいたちの名優を輩出しています。ポスター画には、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之たちポスターを描いています。また、韓国の抵抗詩人で、当時保釈中の金芝河との合同公演をもくろんで、戒厳令下の韓国に渡航して取材をして、『二都物語』を執筆しました。1972年3月(昭和47年)に再度渡韓して、韓国当局から無許可のまま、ソウルで、金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演しています。翌1973年(昭和48年)にはバングラデシュのダッカで、チッタゴンで『ベンガルの虎』の公演を行い、1974年(昭和49年)にはレバノン、シリアの難民キャンプで『アラブ版・風の又三郎』といずれも現地語での公演を行いました。また、中央公論社『海』の編集者だった村松友視の薦めもあり、小説を書くようになり、1983年(昭和58年)「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞しました。

状況劇場解散

1988年(昭和63年)、状況劇場を解散して劇団「唐組」を旗揚げしました。作・演出・出演を務めています。1997年(平成9年)10月には横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授に就任して、「舞台芸術論」などの講義と学生・中野敦之らの劇団「唐ゼミ★」を指導しています。(第2回公演まで作・演出担当。それ以降~現在は作と監修を務めています)

2005年(平成17年)横浜国立大学を定年退職して、同年、近畿大学文芸学部客員教授就任しました。2010年1月(平成22年)近畿大学にて最終講義を行っています。

2012年4月(平成24年)から、唐十郎の母校でもある明治大学文学部の客員教授に就任しています。

唐十郎のエピソード

  • 1:唐十郎は、21歳で土方巽(ひじかた たつみ)の門下になりますが、門下に入るまでは、謹厳な父親の指導もあって、「朝6時半に起きて、夜は7時半に寝る」という真面目一方の人間でした。当時の土方の門下には、石井金八、麿赤児、中嶋夏、李麗仙たちがいました。
  • 2:唐十郎は喧嘩に武勇伝と数々の武勇伝があります。1969年12月5日(昭和44年)に、寺山修司は状況劇場のテント興業の初日に祝儀の花輪を「冗談のつもり」で葬式用の花輪にしました。(これは寺山の天井桟敷の旗揚げ公演の際に、唐十郎から中古の花輪を送られた事への意趣返し)一週間後の12月12日も、唐十郎は劇団員を引き連れて天井桟敷を襲撃して、大立ち回りを演じます。結局、乱闘事件を起こしたことで唐十郎と寺山修二を含んだ双方の劇団員9人が暴力行為の現行犯で逮捕されました。寺山が言うところには「ユーモアのつもりだったが分かってもらえなかった」、唐十郎が言うには「ユーモアのつもりなら自分で持って来い、そもそも話を聞こうと思って行っただけ。これは殴り込みではない」と言っていました。また、野坂昭如とも新宿ゴールデン街の飲み屋で大喧嘩して、包丁をまな板に突き立ててしまったこともあります。赤塚不二夫の著書によると、酒場で喧嘩があると聞くと乱入して、大立ち回りをして、見得を切ることもしばしばあったと書かれています。
  • 3:唐十郎は幼年期の記憶に生まれ育った御殿場での体験があります。当時、唐十郎の母親は「富士山の地底奥深くに地底人が住んでいて、地上侵略のため夕方辺りが薄暗くなると富士五湖から這い上がってきて侵略に来る」という作り話を、子供の唐十郎に吹き込んでいたと言います。その体験が後の唐十郎の作風に影響を与えています。駅のコインロッカーの一部に異次元へと繋がるドアがあると言う唐の初期戯曲には、この体験が元になっています。
  • 4:小林薫が状況劇場を退団したいと言う話を聞いた唐十郎は、小林薫のことを高く評価していたこともあって、退団を考え直すように説得しようと包丁持参で小林薫の住んでいたアパートへと向かいました。しかし先に小林薫がアパートから逃げ出していたため唐十郎は小林薫を説得することは出来ずに、結局小林薫の退団をなし崩しに認めてしまったと、後にテレビ出演した際に告白しています。
  • 5:1970年(昭和45年)、唐十郎自身による作詞・歌のレコード『愛の床屋』を発売しました。歌詞に対して全日本床屋組合よりクレームがついて、結局発売禁止で放送禁止となりました。
  • 6:若松孝二(映画監督)によると、紅テントの買い替え費用は酒の席の約束だったにも関わらず赤塚不二夫が買い替え費用を出したそうです。テント代金は1970年代半ばの時で、750万円だったといいます。
  • 7:貧乏時代のなごりがあり、戯曲を書く際には、カレンダーなどの裏に横書き。そして紙を節約するため非常に細かい字で書く癖がついていました。唐十郎が細かく書いた戯曲を、劇団のメンバーが原稿用紙などに清書していました。